潰れたトマトと喋るカラス

アニメを批評する(佐倉綾音さん贔屓)

『グラスリップ』とは何だったのか?

グラスリップ』(GLASSLIP)は、P.A.WORKSによる日本のテレビアニメ。2014年7月より9月まで放送された。全13話。(Wikipedia)

 

近年の深夜アニメ作品のなかで、視聴者にここまで広い解釈の幅を与える作品は他にないと思う。

 

私が思うに、この作品の主題は「駆の抱える『唐突な当たり前の孤独』という感情を、透子が分かち合うまでの物語」である。

 

結局、最終回まで二人はお互いを完璧に理解し合うことはできなかった。二人に限らず、雪哉とやなぎ、祐と幸もそうだ。人間誰しも、他者を完璧に理解することなどできない。

 

しかし、他者が抱える感情の「欠片」を「分かち合う」ことならできるのではないか。駆と透子は、二人だけの特別な場所で「唐突な当たり前の孤独」という感情を分かち合った。駆は街を去るが、感情を分かち合ったという「つながり」は消えない。ここで初めて、駆は自分の「心の居場所」を見つけたのかもしれない。

 

この作品を難解なものにさせている、登場人物たちの奇怪な行動(駆の唐突な分身、やなぎの暗号のようなメール、幸の意味不明な告白)はどう解釈すればよいか。これらは、青春時代を過ごす少年少女の複雑な心の揺れ動きを、まるで「光がガラスで屈折する」かのように、ある種の屈折した形で表現したものなのではないだろうか、と私は勝手に思っている。

 

リアリティをもたせて視聴者を感情移入させるのではなく、いくらかのファンタジー性をもたせて彼らの心情を表現するという、文学的な、アーティスティックなアプローチだと捉えられる。というか、そう考えなければ全然説明がつかない。あれにどう感情移入しろというのだ。

 

そして、作品のキーワードとなる「未来の欠片」とは、結局何だったのだろうか。透子は最終回で、「あれは未来なんかじゃなくて、まだ起こってない、だけど、きっとこれから起きること」と語っている。「未来の欠片」で見えたものは、必ずそうなるという「運命的な未来」ではなく、こうなってほしい(あるいは、こうなってしまうかもしれない)という「自分が思い描く未来」だったのだろう。

 

最終回では、透子の母親も若い頃に同じような現象が起きたと語っている。「未来の欠片」は予知能力のような不思議な力ではなく、上記の奇怪な言動と同じように、青春を生きる若者が抱く期待と不安を表現した形なのだろう。ただ、最終回を観てそう感じただけなので、また見返すと違っているかもしれない。もう見返す気はないが。

 

ストーリー以外の感想を。

 

映像としては、とにかく風景や建物の描き方が美しい。行ってみたいと思わせるような、アニメとして最高の舞台をつくりあげていた。

 

女性声優では、早見沙織の演技がずば抜けている。芯の強さと時折みせる弱さを絶妙に表現し、キャラクターの魅力を最大限に引き出していた。それがいまいちできていないのが種田。透子の声優は論外。

 

男性声優にはあまり詳しくないが、最後まで観た後だと、もはや駆の役は逢坂良太以外ありえないと思った。クールなキャラではあるが、逢坂の声にはしっかりと感情が乗っているし、キャラクターのもつ強い意志と不思議なオーラを引き立たせていた。

 

作品内に文学や哲学の要素が盛り込まれており、原作者もそういった高い知性を求める作品がつくりたかったのだろうと思う。『グラスリップ』という作品は、良くいえば様々な解釈のできる奥深い作品だが、悪くいえば物語として破綻している。私の評価としても、「出来が良い」作品だとは残念ながら言えない。

 

しかし、もしP.A.WORKSが世に生み出したこの「怪作」をあなたがまだ観ていないとしたら、挑戦してみる価値はあるだろう。